予想のとおり、藤村さんが最終選考の作品たちをひとつの軸に乗せるところからクリティークは始まります。それを壊した方が議論としては良かったのかもしれないのですが、ふりかえると非常にまやかしに満ちた軸だったのが面白くて、その流れに乗ったのもあながち悪くなかったように思います。何がまやかしか、当日聞いていた皆さんにしかわからないかもしれませんが少し話してみます。
藤村さんは最初に個々の作品テーマのひとつの側面での類似による対比の組を並べました。それはテーマの内容です。そしてその並びにたいして左端をビジョン、右端をモデル、と軸をつくりました。実はこれは形式です。テーマの内容をそのまま軸に載せるなら、おそらく、左端を他律的テーマ、右端を自律的テーマと位置づける方が自然なのですが、たまたま集まった作品が、他律的なテーマにおいてビジョンすなわち全体のイメージからつくり出す作品が、自律的なテーマにおいてモデルすなわち部分を組み上げてつくりだす作品が多かったので半ば強引に内容軸と形式軸を重ねてしまいます。案の定、実はいくつかほころびがあります。たとえば障碍のある家族との対話というテーマは建築にとってはかなり他律的なので、本来の目の付け所としては大地の保水力とゴミを絡めたモンゴルの作品と近しさがあります。仮に障碍のある家族と暮らす家のハウスメーカービジネスモデルなんてものを提示していれば(形式側の説明でなく内容側の説明を深めていたら)、もうすこし別の評価に乗ったかもしれません。また、この形式軸はある程度、演繹(ディダクション)と帰納(インダクション)の軸でもあることを考えると、最優秀賞を取った物/世界の行き来をする作品がちょうどそのどちらにも行ったり来たりしようと試みている作品であることが分かります。
途中、建築を広げるスタートアップ派と同じものを繰り返し生産し続ける大学教員派の軸に巻き込まれてしまいましたが、実はその時にも不思議な軸を藤村さんは重ねます。モデル側は複雑で好きだと。単純・複雑というのは本来はまた独立しています。けれどこれらの軸が重なりえたこと(まやかしが批評的だったこと)が今回の集まった作品に対するひとつのクリティークになっていたように思います。
福岡・九州の先生方、学生運営委員の皆さまの圧倒的な組織力とホスピタリティに感動いたしました。楽しい会に参加させていただきありがとうございました。